温泉旅館の経営者が「もう続けられない」と感じたとき、選択肢は大きく2つあります。廃業するか、M&Aで事業を引き継いでもらうか。
「廃業のほうが手っ取り早い」と思われがちですが、温泉旅館の場合、話はそう単純ではありません。筆者が実際にお手伝いした温泉旅館の事例では、廃業にかかるコストが1億円を超え、M&Aの準備費用の5倍以上になったケースがありました。
この記事では、温泉旅館の廃業とM&Aを「コスト」「従業員」「地域への影響」「経営者の負担」の4つの軸で比較し、どちらが得なのかを考えます。
この記事でわかること
- 温泉旅館の廃業で1億円規模の費用が発生しやすい理由
- M&Aを選んだ場合に必要になる準備費用と、廃業費用との違い
- 従業員、地域、個人保証、温泉権利まで含めた判断軸
- 早い段階で検討を始めるべき理由
温泉旅館の廃業、実際にいくらかかるのか
温泉旅館の廃業コストは、一般企業の廃業とは桁が違います。
筆者が過去に廃業をお手伝いした温泉旅館の事例をご紹介します。この旅館は客室数40室ほどの中規模旅館でした。御嶽山の噴火があった時期に、火山性の風評被害によって予約が激減してしまい、今後の見通しが立たなくなったことから廃業を決断されました。
国立公園の制約という見えない壁
この旅館は国立公園内に位置していました。温泉旅館が国立公園内にあることは珍しくありません。もともと旅館が建っていた場所が、後から国立公園に指定されたというケースが多いためです。
問題は、国立公園内で廃業する場合、建物を更地にしなければ撤退できないという制約があることです。
コストだけを考えれば、旧館の状態で放置しておくことも考えられます。しかし、この社長様は「地域に愛されて、地域に生かされてきた旅館だからこそ、最後はきちんと始末したい」とおっしゃいました。
解体費用は1億から2億円
客室数40室ほどの温泉旅館を更地にするために、1億円から2億円の解体費用が発生しました。
温泉旅館の解体コストが高くなる理由は、いくつかあります。
- 建物が大きい(客室、大浴場、宴会場、厨房などが一体化している)
- 温泉設備の撤去が必要(源泉ポンプ、引湯管、浴場設備など)
- 特殊な立地にある(山間部、川沿い、吊り橋の向こう側など)
- アスベストなどの有害物質の処理費用
- 産業廃棄物の処理費用
場合によっては、吊り橋の向こう側で温泉旅館を経営しているケースもあります。重機の搬入だけでも大がかりな工事になり、解体コストがさらに膨らみます。
解体費用だけではない廃業コスト
建物の解体以外にも、以下のコストがかかります。
| 項目 | 概算費用 |
|---|---|
| 建物解体費 | 数千万円から2億円 |
| 温泉設備撤去 | 数百万円から1,000万円超 |
| 従業員への退職金・解雇予告手当 | 数百万円から数千万円 |
| 土地の原状回復 | 数百万円 |
| 登記・清算手続き(法人の場合) | 数十万円から100万円 |
| 合計 | 数千万円から2億円超 |
社長様はこう話されていました。「このまま営業を続けないと、廃業するための解体コストが捻出できなくなる」。営業を続ければ赤字が増え、廃業しようにも解体費用が払えない。この板挟みが、温泉旅館の廃業における最大の問題です。
「そもそも廃業できない」という現実
実は、解体費用が捻出できないためにそもそも廃業すらできないという状態に追い込まれている温泉旅館は相当多いです。
廃業できなければ、建物は朽ちていくだけです。地域に廃墟を残してしまう。金融機関からの返済にも追われ続ける。経営者にとっては、出口のない袋小路です。
一方で、M&Aやスポンサー型のM&Aで救われた旅館もたくさんあります。廃業寸前だった旅館が、新しいオーナーのもとで営業を続けている事例は珍しくありません。
廃業すると個人保証が残る
温泉旅館の経営者の多くは、金融機関からの借入に対して個人保証を入れています。廃業しても、この個人保証は消えません。
個人保証が残れば、自己破産を選択せざるを得なくなります。自己破産すると数年間はクレジットカードを持てなくなりますし、信用保証協会の代位弁済の処理も必要になります。銀行としても、個人保証が残っている以上、最終的には自己破産で処理されることを想定しています。
つまり廃業を選ぶということは、旅館を失うだけでなく、経営者個人の信用と生活基盤も失うことを意味します。
廃業すると温泉権利を失う
もう一つ見落とされがちなのが、温泉権利の問題です。
廃業すると、温泉権利は温泉組合に返還することになります。山形県の場合、温泉組合に権利を返してしまえば、手元に残るのは土地だけです。
しかし、温泉権利のない土地は、温泉旅館としての価値がありません。新しい買い手が現れたとしても、温泉権利がついていなければ買う理由がない。結果として土地も売れず、建物は廃墟のまま残る。この悪循環に陥ります。
温泉権利は、一度手放すと取り戻すことが極めて困難です。廃業の判断は、温泉権利を永久に失う判断でもあるのです。
M&Aを選んだ場合のコスト
一方で、M&Aを選択した場合はどうでしょうか。
筆者が過去に対応した客室数20室ほどの温泉旅館では、売却するための準備費用として約2,000万円が必要でした。
M&Aの準備費用の内訳
M&Aで旅館を売却するためには、デューデリジェンス(買収監査)と呼ばれる調査を受ける必要があります。司法書士、弁護士、公認会計士、中小企業診断士などの専門家が入り、事業が売れる状態にしていきます。
| 項目 | 概算費用 |
|---|---|
| 財務デューデリジェンス | 数百万円 |
| 法務デューデリジェンス | 数百万円 |
| 事業価値評価 | 数百万円 |
| M&A仲介手数料 | 数百万円から1,000万円 |
| その他(温泉権利調査など) | 数十万円から数百万円 |
| 合計 | 約2,000万円 |
もちろん、旅館の規模や状態によって費用は変わります。しかし、廃業の解体費用と比較すると、M&Aの準備費用は5分の1から10分の1で済むケースが多いのです。
M&Aなら借入関係も解決できる
M&Aの大きなメリットは、金融機関への借入関係が買収側・スポンサーとの交渉によって解決できることです。
「しっかり買いたい」という意向を持った買い手であれば、借入の始末の付け方についてきちんと議論がおこなわれます。むしろ、借入関係の処理方針が合意できなければ、M&Aは成立しません。逆に言えば、成立したM&Aでは借入問題が解決済みだということです。
廃業の場合は個人保証が残り、自己破産に追い込まれる可能性がありました。しかしM&Aであれば、個人保証の解消を交渉に含めることができます。
経営者自身の「次の人生」
M&Aで旅館を引き継いでもらった経営者は、借入に追われることもなく、次の人生に進むことができます。金融機関から詰められるような日々から解放される。そして何より、自分がお客様として、かつて経営していた旅館に泊まりに来ることができる。
これは金額では測れない価値です。
金額だけでは語れない「4つの比較軸」
廃業とM&Aの違いは、コストだけではありません。以下の4つの軸で比較すると、全体像が見えてきます。
| 比較軸 | 廃業 | M&A |
|---|---|---|
| コスト | 数千万円から2億円超の支出 | 約2,000万円の準備費用。売却益が得られる可能性もある |
| 従業員 | 全員解雇。退職金・解雇予告手当が必要 | 雇用継続の交渉が可能 |
| 地域への影響 | 廃墟が残るリスク。観光地の景観悪化 | 旅館が存続し、地域の雇用と観光を維持 |
| 個人保証 | 残る。自己破産に追い込まれる可能性 | 買収側との交渉で解消できる |
| 温泉権利 | 組合に返還。土地の資産価値が激減 | そのまま引き継がれる |
| 経営者の未来 | 信用毀損。数年間カード不可 | 次の人生に進める。お客様として旅館に来れる |
廃墟問題という地域への影響
温泉旅館を廃業した後、解体費用が捻出できなければ、建物はそのまま放置されます。これが「廃墟問題」です。
東山温泉(福島県会津若松市)では、廃業した旅館の廃墟が温泉街の景観を損ねる問題が起きています。近くの旅館が自己負担で約2,000万円をかけて解体したケースもありますが、すべての廃墟を撤去する余裕はありません。
地域に廃墟を残してしまうことは、その温泉地全体の観光にマイナスの影響を与えます。夜逃げしてしまえばそんなことは関係ないのかもしれません。しかし、地域に愛されて地域に生かされてきた温泉旅館だからこそ、最後まで責任を果たしたいと考える経営者がほとんどです。
こんな旅館はM&A向き / 廃業もやむを得ないケース
すべての温泉旅館にM&Aが適しているわけではありません。以下を判断の目安にしてください。
M&Aが適しているケース
- 温泉の泉質や湯量に魅力がある
- リピーターのお客様がいる
- 従業員が残っており、サービス品質を維持できている
- 地域のブランド力がある温泉地に位置している
- 経営者が元気なうちに判断できる段階にある
廃業もやむを得ないケース
- 温泉が枯渇している、または泉質が大きく劣化している
- 建物の老朽化が著しく、安全面で営業継続が困難
- 債務超過が深刻で、デューデリジェンスの費用すら捻出できない
- 立地の環境変化で集客が見込めない
ただし、「うちの旅館に値段はつかない」と思い込んでいるケースが非常に多いです。温泉権利、地域のブランド、既存の建築許可、固定客。これらは新規に取得しようとすると数年から10年単位の時間と費用がかかります。大手チェーンやファンドにとっては、それだけで十分な価値があるのです。
判断を先延ばしにするリスク
最後にお伝えしたいのは、先延ばしが最大のリスクだということです。
業績が悪化してから動き出すと、M&Aの譲渡条件は厳しくなります。買い手の選択肢も狭まります。従業員の雇用維持や地域への貢献といった、お金以外の条件も実現しにくくなります。
「まだ体力があるうちに、自分の意思で決める」ことが、最も良い結果につながります。
追い込まれてからの売却は、条件も買い手も選べなくなります。M&Aは「最悪の出口」ではなく「戦略的な選択肢」として、早い段階で検討を始めることをおすすめします。
まとめ
温泉旅館の廃業とM&Aを比較すると、以下のことがわかります。
- 廃業は解体費用だけで1億円を超えることがある。そもそも廃業すらできない旅館も多い
- M&Aの準備費用は約2,000万円。廃業の5分の1から10分の1で済む
- 廃業すると個人保証が残り、自己破産に追い込まれる可能性がある
- 廃業すると温泉権利を失い、土地の資産価値も激減する
- M&Aなら借入関係を買収側との交渉で解決でき、経営者は次の人生に進める
- 判断は早いほど条件が良い。先延ばしが最大のリスク
金額だけで見てもM&Aのほうが安い。そのうえ、旅館を残せる、従業員の雇用を守れる、地域に迷惑をかけない、温泉権利も守れる、経営者自身の人生も守れる。その意味では、プライスレスな価値があるのではないでしょうか。
廃業とM&A、どちらが得かと聞かれれば、うまくいけば解体費用もかからず、事業を継承できて、地域に旅館を残せるM&Aのほうが得です。まずは現状を整理するところから始めてみてください。
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