《用語解説》若手社員の思わぬ出費と事業承継

登場人物

津名久はなこ:主人公のひとり。新入社員。社長から事業承継に関するレポート作成を指示されている。
勝瀬秀子:もうひとりの主人公。はなこの先輩社員で、経営戦略に詳しい。期待の若手経営コンサルタント。
社長:津名久はなこたちが所属する会社の経営者で、経営改善についての知見がある。


終業間際の金曜日。津名久はなこは焦っていた。
レポートの提出が月曜に迫っているからだ。
社長からは「勉強のために、自分で事業承継についてまとめてみなさい。しっかりと余裕をもって期間を設定しているから、じっくり取り組んでみるといい」と言われていたが、新入社員はとにかくバタバタするものだ。
連携している行政からの資料作成業務が突然舞い込んできたため、そちらにすっかり時間(と意識)を取られてしまった。


実は、はなこはそのことを社長に相談していない。
「終わると思ったんだけどな……」根拠のない自信だけでこなせるわけもない。
反省はしている。けれど依頼されたことにはきちんと取り組みたい。

「よし、神様に助けてもらおう!」
勢いよく席を立ったはなこは、事業承継について詳しい先輩の勝瀬秀子のデスクへと向かった。


「はなこ、それなら社長にスケジュール変更の相談しないとダメじゃない」と、秀子はあきれ顔だ。

「すみません、出来ると思ったのですが・・・」と、はなこは俯く。

「まったく・・・。金曜の夜だっていうのに。イタリアンにぴったりな夜だっていうのに」秀子はニヤニヤしはじめる。

「先輩、私めっちゃ美味しいイタリアンのお店知ってます!喜んでご馳走させていただきます!」
「かわいい後輩の緊急事態ですものね。もちろん協力するわよ。ワインも飲みたいしね」

懐は寂しい。しかし背に腹は代えられない。
「……承りました」うなだれるはなこの後ろでは、ちょうど時計が5時を指すところだった。


二人はイタリア料理のお店に向かった。
週末で混みあっていたが、常連のはなこのために店主が二人分の席を用意してくれた。

「それで、今回のレポートのテーマは何なの?」白ワインをボトルで注文すると、秀子ははなこに顔を向けた。

「事業承継についてです。家族に引き継ぐ、従業員に引き継ぐ、M&Aを活用して売却する、という3つの方法があるということは分かったのですが…」

秀子は少し考え込んだが、すぐに口を開いた。「それなら、まずは3つの方法について詳しく説明しましょうか」。

詳しく説明したいが、どう話を進めていいかわからないはなこの気持ちを読み取り、秀子は話を切り出した。

「はなこ、事業承継は大変だけど、会社の未来につながる大事なことなんだよ。家族に引き継ぐ、従業員に引き継ぐ、M&Aを活用して売却する、それぞれにメリットとデメリットがあるのよ」

「そうなんですね。具体的にはどういうことなのでしょう?」と、はなこは身を乗り出した。

「まず家族に引き継ぐ方法はね、経営者が事業承継後も会社に関わりを持つことができるというメリットがあるの。でもね、後継者ももちろん経営者として経営力やリーダーシップが求められるでしょう。それがない場合は、リスクが高くなるわよね」

「経営者の親族だとしても、みんな経営者の資質があるとは限らないですもんね」

「そうなのよね。次に従業員に引き継ぐ方法だけど、会社の雰囲気が変わらないのがメリットかな。社員たちが既に会社の文化や仕組みに慣れているから、円滑な承継ができるってこと。ただ、社員が十分な経営力を持っているかどうかは、家族の場合と同じで大きな問題だけどね」

「うーん、付き合いの長い人は安心だけど、社員と経営者では求められる能力が違いますものね」

「M&Aを活用して売却する方法は、経営者の持っている株式が現金化できるというメリットがあるの。退職金代わりって言われることが多いわ。買収してくれる企業が事業を発展させてくれる可能性があるから、リスクが少ないこともあるわね。ただ、M&Aは簡単なことじゃないから、専門家に相談する必要があるのよ」

「にゃるほど。家族や従業員に後継者がいない場合は、M&Aが最適解ということですか?」

「そうね、M&Aなら事業の継続性を確保しながら新しい経営者に引き継いでもらうことができるから。ただ、M&Aは手続きが複雑だから、専門家に相談することが大切よ」

はなこはワイングラスを置いて、引退する経営者の気持ちを想像してみる。
手塩にかけて育てた会社がより発展するために、誰に託すべきか・・・
決めることは簡単ではないだろう。
後継者がいないために畳むなんて、身を切るより辛いことだろう。

「大変なんですね…。じゃあ、個人事業主と法人だと違いがあるのですか?」

「もちろん。法人の場合は株式の譲渡が必要で、会社法に基づいた対応が求められるわ。一方、個人事業主の場合は、先代事業者は廃業を選択して、後継者が創業する手続きになるわね」

「げげげ……そうなんですか…。考えること多いですね。」

「中小企業のM&Aはカツカツの状態で実行することが多いから、資金繰りが難しいのよ。だから事業承継の計画を立てるときは注意しないといけないの。親族内か外かで対応が異なっていて、親族外の場合、金融機関から借入しないと対応できないことが多いから」

「そっか…。税金や社会保険、会社法などを考慮する必要があるので、各専門家に相談した方が良いということですね」と、はなこがまとめた。

「そうね。中小企業庁や国税庁には、事業承継支援についての補助金や助成金、優遇された税制もあるのよ。事前に申請が必要だけど、活用できる支援メニューがあるから調べてみるといいわ」

「そっか、法人が減ると税収が減って国も困りますものね。だから支援制度もあるのですね」

「察しがいいじゃない。最新情報を手に入れるのも専門家の仕事だからね。頑張れ、経営コンサルタント!」と、秀子が檄を飛ばした。

「はい、早速調べてみます!助成金や優遇された税制があれば、事業承継もスムーズにできそうですね」と、はなこはうれしそうに言った。

白ワインを片手に事業承継の話題で盛り上がりながら、はなこはレポートに必要な情報をメモする。
あっという間に時は過ぎ、気づけばお客さんの姿もまばらになっていた。

「そろそろ帰ろうか」秀子はグラスに残ったワインを飲みほした。

「そうですね。では、お勘定をお願いします!」はなこは上機嫌で店主に声をかけた。
しかし、ニコニコと店主が差し出す伝票に目を落とし、彼女は一瞬にして青ざめた。ボトルワインを3本も空けたから…。

はなこは、しばし天を仰ぐ。
やがて口角に力を入れて笑顔を作ると、くるりと振り向き「せんぱーーーーい」猫撫で声を出す。
……返事がない。ただの屍のようだ。
ええい、もう一度!「先輩、助けてくださいよお…」

「しかたないわね、割り勘よ」と秀子は軽く睨むが目は笑っている。
「ありがとうございます!!」

「ただし、今度は私の仕事を手伝ってよね」
「任せてください!でも、ボトルワインはやめましょうね」
「そうね、次回はトスカーナの赤がいいわね」
…伝わっていないようだ。

二人は満腹で心地よい気分で家路についた。


月曜日の朝、はなこは朝礼後に社長に事業承継のレポートを提出した。
全力で仕上げた、自信作だ。
……あの日の晩に飲み過ぎたワインが影響し、土曜日は二日酔いに苦しみ、日曜日に復活したものの、記憶をたどりながらメモを読み返すのに苦労したのははなこだけの秘密だ。

社長はレポートを受け取ると、じっと読み込んだあと「素晴らしい、よくまとまっているぞ。勉強したな」と感心した様子だった。
「ありがとうございます。秀子先輩にアドバイスをいただいたお陰です」はなこはクールに頭を下げたが、内心では「よかったー!」と胸をなでおろしていた。

社長が背中を向けると、はなこはスキップで秀子のデスクへ向かった。

「レポート執筆の助言をいただきましてありがとうございます。これも先輩から私への知識の事業承継ですね!」

すると秀子は微笑んで「いいわね、その考え方。でも、私も社長や顧問からたくさんアドバイスをもらっているわけだから”知識の承継”は間違いないかしら。…それにしても、あなた元気でうらやましいわ。」と言った。

「はい、元気です!今日は打ち上げで日本酒を飲みに行きましょう!」
秀子は驚いた表情を浮かべ「また飲み会?!今日は居酒屋さんもだいたいお休みでしょう!」と窘めた。

すると、はなこはニヤリと笑い「大丈夫ですよ、月曜日が営業日の良いお店知っていますから!秀子先輩が奢ってくれるんですね?」と、店の名前を伝えた。

秀子も「そういうことなら、今日はたっぷり私の仕事手伝ってもらうから…」と不敵な笑みを浮かべ、二人は日本酒を楽しむことになったのだった。